時の流れゆくままに・64 | 府中まちコム
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作成日 2026.06.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・64

夜の暗い森の中にひとり、身を置く人のシルエット

 「天使こと転詞の辞典」草稿より抜粋

(名人)
一道に長けた天才的人物のことを言うが、その人物が必ずしも称賛に値するとは限らない。虚言の名人、詐欺の名人、スリの名人、窃盗の名人、女たらしの名人など、社会的には有害な技に関する名人も多々存在するからである。人生の道行きで迷うことを持ち前とする名人、すなわち「迷人」などはこの世に無数に存在している。そんな「迷人」としての道行きの度合が常軌を逸し過ぎた場合、一刻も早く瞑目し果てた姿、すなわち「瞑人」となりたいと希いたくなるのも人間のもつ一面にほかならない。

(燃える)
「善と悪」や「利と害」のごとき、相反する対照的事象の両端にまで深く関わる概念である。異性に対する熱愛のゆえに心が激しく燃えることもあれば、相手に対する憎悪のゆえに殺意さえも催すような怒りに燃えることもある。朝空や夕空が美しく燃え、人間の心を安らわせてくれることもあれば、大火災が発生して森林や人家が燃え立ち、人々を苦しめることもある。日常の世界にあっても、燃えるものが無ければ生活は成り立たないし、だからと言ってその火が燃え過ぎれば穏やかな生活に危害が及ぶ。人知をもって程々にその熱量を制御していくしかないのだが、昨今の世界各地での森林大火災の発生に見るように、そのような制御が極めて困難なのがこの世の現実なのである。

(夜陰)
夜の暗がりを意味するこの言葉には、どこか陰険な雰囲気が付き纏っている。諸々の悪行はそんな夜の闇に紛れて実践されるものだという固定観念が多くの人々の心中にあるからなのだろう。しかし、独り静かにそんな夜陰と真摯に対峙してみると、思わぬ発見があったり、深く心を洗われたりすることも少なくない。だが、現実には、昔ながらの闇夜は最早この国にはほとんど存在しなくなっている。日本アルプスの如き高山地帯や青木ヶ原のような深い原生森林地帯であっても、頭上に広がる天空は昔日のそれに較べてずっと明るく、夜空全体に浮かび輝いて見える星々の数も随分と減少してしまっている。各地の離島などを訪ねてみても街灯類がそれなりに配備されており、漆黒の闇との遭遇を期待するのは難しい。宇宙から撮影された日本列島一帯の夜間映像を眺めると、列島全体が明るく輝き浮かんで見える有様だから、今更遠い時代の闇夜や満天の星空を望むのは所詮無理な話ではあるのだろう。

そもそも、日常生活の安全性が優先・強調される近年の社会的な風潮のもとでは、暗闇というものには「悪」のイメージが付き纏ってしまう。明るさこそは善だとみなされるなかで、闇の空間の存在意義というものは失われていくばかりなのである。闇の中に身を置くと、視覚をも含む五感が鋭く研ぎ澄まされ、体内に眠る諸々の感性が蘇生されたりもするのだが、進んでそんな体験を求めるむような者はもう皆無に近い。

その意味では、深夜の青木ヶ原に見るような深閑とした闇の中に独り身を置き、どこからともなく聞こえてくる虫の音や微かな物音に耳を傾け、辺りに漂う大気の動きなどを全身で察知し、さらには微生物や苔類の放つ仄かな光や香りの感知を楽しむ人物の如きは、もはや変人の類に分別されるしかないのだろう。ああ、しかし、私はひたすらそんな変人であり続けたい!――心中深くでそう呟く人物もまだまだ存在していて欲しいものである。

(油断)
定かではないが、いろいろと想像を廻らせてみるに、昔の寺社や宮殿などでうっかりして灯火用の油を注入し忘れたり、油そのものを用意し忘れたりしたために、法灯などのような大切な灯火が消えてしまった非常事態などが語源となって生まれた言葉のようである。そうだとすれば、「油断大敵」という文言などは、現代にあっては「電断大敵」とでも改めるべきなのかもしれない。

(本田成親)