時の流れゆくままに・28 | 府中まちコム
府中まちコム

この記事について

作成日 2023.06.06

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・28

1922年に創刊され、100年余にわたって世論形成の重要な一環を担ってきた「週刊朝日」が、5月末の最終号をもって休刊となった。1992年晩秋の頃、当時の同誌編集長・穴吹史士氏から突然の電話をもらい、連載記事執筆の要請を受けたことはいまだに忘れ難い。しばし戸惑いもしたが、先方の熱意に促され、築地の朝日新聞社に出向く運びとなった。

元社会部記者で週刊朝日編集長に就任して日も浅いという穴吹氏が語った原稿依頼の背景は実に意外なものだったので、正直困惑を覚えもした。実は、同年5月に、私は「超辞苑」(新曜社)という、極めて風刺性の高い辞書スタイル作品の翻訳書を刊行してもらっていた。たまたま同著を読んだ穴吹氏は、本文よりも巻末の私の後書きやプロフィール文のほうが面白かったとかで、急に連載執筆の打診を思い立ちアクセスを試みたというのである。

分不相応な話だとは思いながらも結局私はその要請を受け入れ、女優・宮沢りえの麗姿が表紙を飾る93年の新年増大号から、「怪奇十三面章」というコラムを執筆することになった。ただ、池澤夏樹、船橋洋一、ナンシー関、司馬遼太郎をはじめとする錚々たる執筆者面々の中に埋もれるようにして登場したわけなので、赤面の至りではあった。

穴吹氏が編集長を務めていた週刊朝日の絶頂期時代、同誌や朝日新聞の論調を厳しく批判することにより、対抗馬として存在感を高めていたのが、花田紀凱氏が当時の編集長を務めていた週刊文春にほかならない。その週刊文春が、近年、「文春砲」という異名のもと、社会的存在感を一段と高め、毎号の宣伝広告が朝日新聞紙面にも大きく掲載されるのに対し、かつての本命・週刊朝日が休刊の憂き目に瀕したのは皮肉な事態としか言いようがない。

激しく対峙し合った穴吹・花田両週刊誌編集長が辿ったその後の足跡は数奇なものである。週刊朝日編集長として業績を残した穴吹氏は朝日新聞出版局次長に昇進した。一方の花田氏はマルコポーロ誌編集長へと転任したあと、同誌に掲載した記事が社会的批判を被って、文芸春秋社退社のやむなきに至る。ところが、そんな花田氏に対して救いの手を差し伸べたのが他ならぬ穴吹氏で、それはまさに「敵に塩を送る」という諺を地で行く振舞だった。

穴吹氏は自らが発行人になり、編集長に花田氏を迎えて新たな女性週刊誌「UNO!」を創刊した。だが、「UNO!」誌の刊行は大きな赤字をもたらすことになり、97年には廃刊へと追い込まれる。その責任を取らされた穴吹氏は、インターネット時代到来前で、文字通り閑古鳥の鳴く部署であった電波メディア部局へと左遷される。また、花田氏のほうは同時に朝日を離れ、再び二人は別々の道を歩むことになっていった。

一時は落ち込んだものの、穴吹氏は程なく自らが企画運営兼編集責任者となってAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)欄をウエッブ上に立ち上げる。そして、私はキャスターの一人として「マセマティック放浪記」という連載コラムの執筆を担当されられることになった。2000年代に入るとAICへのアクセス者数は100万人、200万人と飛躍的な増加を続けて大成功を収め、穴吹氏は面目躍如、大いに名誉を回復するに至ったようなわけである。

だが、その穴吹氏も2013年に癌のため63歳で他界した。亡くなる間際まで親交を持ち続けた穴吹氏には印章彫りの特技があり、私の名を篆書体で彫り刻んでくれた象牙印は今では大切な形見の品となっている。天上界のそんな穴吹氏の御霊は、事実上の週刊朝日廃刊の経緯をどんな想いで眺めていることだろう。

(本田成親)