時の流れゆくままに・29 | 府中まちコム
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作成日 2023.07.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・29

6月初め、「和漢の調べ」を謳い掲げた「土橋靖子書展」を観賞するために、日本橋高島屋の美術画廊へと出向いた。書道の世界にはまるで疎い身なのだが、高名な女流書家の52点にも及ぶ作品展ゆえに、素人には素人なりの楽しみ方があるのではなかろうかと思ってのことだった。多くの弟子筋の方々の来場もあってのことだったのだろうが、会場は想像していた以上の盛況ぶりで、中高年の男性客の姿なども数多く見受けられた。

万葉集、古今和歌集、和漢朗詠集、金槐和歌集、新古今和歌集、源氏物語などから抜粋された和歌や漢詩、さらには、世阿弥、良寛、芭蕉、子規、漱石といった著名な人物らの歌句や至言などを揮毫した作品の数々は、なかなかに見応えがあった。一流の書家というものは、諸々の名高い詩歌の類を目にしながら、ただその文言を自らの筆で料紙に書き写すだけの存在ではない。書家自身の想いを託す言葉を揮毫する場合ならともかく、他者の、それも過去の偉人らが心魂を込めて紡ぎ出した言葉を書すとなると、一筋縄ではいかないからだ。

真の書家というものは、あらかじめ過去の数々の古書や文献を深く読み込み、感銘を覚える詩歌や文章に出合ったら、次にその作者の生きた時代や経歴についても一通り学ぶ。そのうえで、想像力のかぎりを尽くして時を遡り、自らの心や姿を当該人物のそれらに重ねながら深い想いに浸り、そのあと満を持して揮毫に臨むわけだ。だからこそ、今般の土橋書展がそうであったように、ズブの素人の胸中にもその作品が強く印象づけられることになる。

展示作品のなかには、私自身も傾倒してやまない歌人良寛の一首、「よの中は かはりゆけども さす竹の きみがこころは かはらざりけり」を揮毫したものもあった。そして、その作品の前に立った時などは、その憶測が正しいか否かは別として、「きみ」という言葉の向こうに、晩年の良寛を最期まで看取った「貞心尼」の姿を想い浮かべてもみたものだ。

また、展示作品とは直接関係なかったが、そんな流れを介して、良寛の辞世の言として伝わる「散る桜 残る桜も 散る桜」や、「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」という、このうえなく奥深い箴言に想いを馳せらせたりもした。

なお、高島屋からの帰り道、久々に東京駅八重洲口に立寄ってみたのだが、そこで目にした一帯の変貌ぶりには唯々驚嘆し、戸惑いさえも覚えるばかりだった。記憶に残る昔の八重洲口周辺の面影など何処にも見出すことができなかったからである。そのため、「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」という松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の一文の語らんとするところが、今更ながら痛切に感じられてならない有様だった。

(本田成親)