時の流れゆくままに・30 | 府中まちコム
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作成日 2023.08.07

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・30

80年も生きていると、驚くような事態に直面することもしばしばではあるが、ごくありふれた自宅周辺での早朝散歩の際、まるで想定外の出来事に遭遇することはさすがに珍しい。先日、徹夜仕事をしたあと、その余勢に駆られて行きつけの多摩河畔に出向き、府中市側から関戸橋を多摩市側に向かって渡り、土手伝いに上流の四谷橋方面へと向かっていた。京王線鉄橋下をくぐり、32階建て高層マンションの脇を通り抜けると、ほどなく「せいせき公園」という表示のある、ごく小さな休憩スペースのそばへと出た。

時刻は日の出直前の午前4時半過ぎ、まだ周辺に人影は見られなかった。土手を降りてその公園内の公衆トイレに立寄ろうとしたのだが、どうせなら通常の男子トイレではなく、スペースが広くより清潔感のある男女・身障者・幼児連れ親子ら共用のトイレを使ってみようかと思い立った。そこで、男子トイレと女子トイレに挟まれるかたちで設けられている共用トイレの前に立ち、扉の引手にそっと指先を当て、おもむろにその扉を開きかけた。

突然、トイレの内部でバサッという何かが揺れ動くような音がしたのは、扉が半分ほど開いた時だった。驚いてトイレの中を覗き込むと、我が目を疑うような光景が視界に飛び込んできたのである。広い床一面にブルーシートが敷き詰められ、そこに二人の男女と思しき人物らが抱き合うようにして寝転がっていたのだった。いきなり現れた私の姿に気づいた二人は、次の瞬間、無言のまま素早く体を回転させ、床に敷いてあったブルーシートごと筒状にまるまり壁際に身を潜めようとした。むろん、私のほうは慌てて扉を閉めその場を離れた。

そのあと散策を続けながら、目にした事態の背景についていろいろと想いを廻らせた。その行為の是非はともかく、二人にはそれなりの事情や状況判断があっての行動だったのだろう。そこに至るまでの経緯については知る由もなかったが、文字通り型破りなそんな発想をし、それを実践に移す一連の行動力には、ひとりの人間としてむしろ敬意を表したくなるくらいであった。通常なら真っ先にそうする筈のトイレの扉の鍵が掛けられていなかったのも、何かしらの思惑や配慮があってのことだったのかもしれない。

奇妙なことだが、そんな風に考えているうちに、トイレの中の二人に対する社会的迷惑感や蔑視の念などはすっかり消え失せてしまった。もしあのあと強引に便器を用いようとしたら、私が立ち去るまで、壁際でブルーシートにくるまったまま息を潜めているつもりだったのかもしれない。善意に考えれば、扉に鍵を掛けていなかったのも、彼らなりのせめてもの配慮であったと言えないこともない。

夜遅くから早朝にかけてはあの共同トイレを使用する者など皆無に近いに違いない。通常の男女専用トイレに較べて広く、そして清潔感のある共用トイレの床を一時的寝所として活用するという着想は、ある意味では極めて合理的である。清掃の行き届いた綺麗な手洗い場なども別途設置されているし、寝ている間に便意を催しても少しも困ることはない。外が風雨に見舞われることがあっても、中は安穏そのものというわけである。先々放浪の身になり果てることがあったなら、この共用トイレ活用術の恩恵に預かりたいと思ったような次第であった。

(本田成親)