時の流れゆくままに・58 | 府中まちコム
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作成日 2025.12.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・58

「天使こと転詞の辞典」草稿より抜粋

(国民)
その実態からしても、「酷民」あるいは「哭民」という表記こそが相応しいように思われてならない。もっともらしい善人面をして「国民のために……」とかいったような訴えかけをする金権政治家ほど、心の内では庶民のことなど少しも考えてなどいないものである。敢えて述べるなら、彼らが暗に意味する「国民」とは、莫大な利権との交換による多額な金銭をもって裏社会で自らを支えてくれる「黒民」そのものの存在にほかならない。

(サイコロ)
「サイは投げられた」とは、ルビコン川を渡って敵地に進攻する際にシーザーが発したとかいう言葉なのだそうである。だが、サイコロを幾ら投げても大損ばかりを繰り返し、遂には無一文になってしまうのが賭博場で一攫千金を夢見る人々の実態ではある。そもそもサイコロというものは意図的に重心を通常の位置からずらしたものを製作し、特定の目を出やすく調整細工することもできる。ただ、一般人はどの目も同じ確率で出るものだと無条件で信じてやまないものだから、折々賭博場などで使用されることもあるというそんなサイコロの特殊性を見抜くことなど出来はしない。

そもそも、この世には、どの目もが完全に六分の一の確率で出るようなサイコロが実在しているのだろうか。どんなに重心に偏りのないサイコロを作ろうとしても、どの目にも偏りのない完璧なサイコロを制作することは不可能である。大数の法則とか称されるものがあって、その法則に従うと、サイコロを振る回数を果てしなく増やしていけばそれぞれの目が出る割合は幾らでも六分の一に近づいていくと言われている。しかしながら、それは、「重心にも立方体の形状にもまったくずれのない、神がかり的に完璧なサイコロが存在するならば」という大前提の上に立つ話である。現実には誰もそんなサイコロを作ることなどできはしない。たとえば、極力精密に作られたサイコロがあったとしても、それを六十万回投げてみた場合、どの目もが十万回ずつ出るというようなことは有り得ない。現実にはある目は十万回をかなり超えた数値に近づくが、逆にある目は十万回を相当割る数値に近づくという状況に至ってしまうに違いない。厳密に言えば、サイコロを無限回振れば、各目の出る割合は、そのサイコロ固有の確率値に近づくということになる。個々のサイコロにも異なる個性があり、同一のサイコロなど存在しないということなのだ。

(自愛)
この世の裏表を知り尽くしてしまった結果、他者に対する慈悲や慈善の心が尽き果ててしまった人間が、孤独に苛まれながら最後に依存する精神状態。手紙文などの末尾に記されることの多い「ご自愛ください」などという一文の意味するところは、裏読みすれば、「俺はもうお前のことなんかどうでもいい。まあ、世の片隅で好き勝手に生きてくれよな……。下手に出しゃばって色々関わりなんか持ってくれると、却って傍迷惑はためいわくなんだよさぁ!」とでもいったようなことになる。

(本田成親)