時の流れゆくままに・59 | 府中まちコム
府中まちコム

この記事について

作成日 2026.01.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・59

「天使こと転詞の辞典」草稿より抜粋

(睡眠)
「寝るは極楽、起きるは地獄」という諺にあるように、眠るという行為は、尽きることなき苦悩のなかで生き続けることを宿命づけられている人間にとって、一時的なものではあるにしろ何よりの救いではあるだろう。たとえそのさなかに悪夢を見ることがあったとしても、眠ることによって人間は耐え難い現実の世界から解放されもする。その意味では、「永眠」とは生きとし生ける者にとって文字通り究極の救いということになる。

(清潔)
この言葉については、衛生的側面に基づく見解と人間心理的な側面に基づく見解との、相異なる二つの解釈が可能なようである。衛生的な面からすると、厳格かつ高度な清潔さを求める人ほど、一般的には経済的に恵まれ、豊かな生活を送っているとも言える。なぜなら、衛生面で清潔な暮らしを維持しようとすればするほど、万全な生活環境の確保、高価な薬品類の購入などをはじめとし、その実践のためには多額の費用が必要だからなのだ。 

その一方、薄汚れた姿でその日暮らしの毎日を送る極貧浮浪の身にしてみれば、自らが排出するごく僅かな生活ごみを捨てる場所さえも見つけられない有様で、やむなくしてそれらを公園や公衆トイレ、道路脇などに放棄することになってしまう。そんな振る舞いが不清潔極まりないと非難されるのはやむを得ないし、不衛生であることも確かだが、その状況にはそれなりの背景が存在してもいるわけなのだ。

だが、皮肉なことに、人間の心理的な面についての清潔さと言うことになると、まるで逆の光景が浮かび上がってもくる。豊かで恵まれた生活を送る人物らにとっては、その前提として財力の維持確保が不可欠なものとなる。そしてそのためには、人知れず狡猾かつ醜悪な知略の限りを尽くして、換言すれば、心的清潔さなど一切放棄して金銭の獲得と保有に走らなければならない。心的には最も不清潔な存在にならならざるを得ないというわけである。その点、社会から孤立しながら極貧の生活に甘んじる浮浪者や世捨て人の類などは、心的な意味では清廉潔白な存在だとも言えよう。

衛生的清潔さ、心理的清潔さのどちらを求めるべきかに絶対解などあろうはずもないが、いずれにしろ清潔とは人間社会が生み出した厄介至極な概念にほかならない。

(祖先)
 自分の祖先の家柄を誇ったりする人が結構いたりするものだが、詰まるところは、現世に生を得ている者の全ては人殺しの血筋を引く存在に過ぎない。何故なら、人類誕生の昔に遡って考えるなら、厳しい生存環境の下で種族同士の激しい殺し合いを数知れないほどに演じ、その結果生き残った者の末裔こそが現在の我々だからである。人類史の源流に視点を据えてこの方を眺めるなら、我々の祖先は冷静沈着に――いやその実は冷酷無比に、他者を死に追いやってでも自分だけは生き延びる術を求め、しっかりとそれを身に付けていただけのことである。

(本田成親)