時の流れゆくままに・15 | 府中まちコム
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作成日 2022.05.13

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・15

2022年5月13日(金)

久々に山梨県側に属する多摩川源流域を訪ねてみた。青く澄んだ清冽な水は、泡立つ激流となって急峻な谷間を一息に駆け下る。そんな源流域の光景を眺めやっていると、すっかり忘れ去っていたものを想い出しハッとさせられることもある。体内に澄んだ水が流れていた青春期の記憶が懐かしく、そして、ちょっぴり恥ずかし気に甦えってくるからだ。

ただその一方、海に近い下流域の多摩川の景観もまた捨て難い。流転に要した長い時間と大地の涙をいっぱいに湛えて、そのぶん水は澱みそして濁っている。澄んだ輝きこそそこにはないが、その流れはゆったりとしていて、広く深い。あるときは夕陽に映え、あるときは街の明りを映し出すその水面(みなも)は、心の目で凝視すると悲しいまでに美しい。

またその静かな川面には、紛れもなくひとつの安らぎが棲んでいる。そして、その悠然たる流れの向かう河口からは、もっともっと大きな海がじっとこちらに無言の視線を送ってきている。まるで、老いたこの身がいずれ往く世界を暗示でもするかのように……。

流れのどこにその時々の心の風景を求めるかは、人それぞれに違うだろう。中流付近の様相が今の自分には相応しいと思う人だっているだろう。我々が身を置く社会という名のこの川だって、澄んだ水、濁った水、純白のしぶきを立てる水、黒いけれども滑らかに流れゆく水と、いろいろな水が合わさって流れている。

多分、澄んだ水も濁った水も、長大な川の流れ全体から考えると、その一滴一滴の振舞いはそう賢くもないが、またそう愚かでもない。また、そんなに清らかでもないが、また忌み嫌われるほどに濁りきってもいないのではないだろうか……。

(本田成親)