時の流れゆくままに・49 | 府中まちコム
府中まちコム

この記事について

作成日 2025.03.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・49

「天使の辞典」草稿より抜粋

(願い事)
古来、この国では神社などに出向いて自らの願望の実現を願う風習がある。お賽銭を奮発しながら願望を心中で呟いたり、絵馬を買い求めてそれに自筆で願い事を記したりしながら、夢の実現や幸運の到来を密かに期待するというわけだ。ただ、人間の欲望丸出しの非現実的な願い事などはまずもって叶うことはなく、そんな願いのために神前に捧げるお賽銭や絵馬代は全て無に帰してしまうものである。それでもなお、とてつもない願望の実現を希求しようとする人々にとっては、この際発想の大転換を図り、「私以外の他の人々の願いは絶対実現しませんように!」と祈り呟いたり、「他の人が絵馬に託した願い事は一切実現しませんように!」という文言を記し置いたりしてみるのも一興かもしれない。

(野垂れ死ぬ)
類人猿の生活の面影をなおも残し伝える古代人などにとっては、この言葉の表す類の最期はごくありふれたものではあったのかもしれない。だが、人間社会が飛躍的な発展を遂げた現代にあっては、野垂れ死にすることは容易でない。老いさらばえた孤高の旅人などが、究極の旅路の果てにたとえそうすることを望んだとしても、最早社会はそんな行為を許してはくれない。遺体が自然に朽ち果て大地に還るまでの時間を恵みもたらしてくれるような寛容な社会など、もう何処にも存在していないからだ。

敢えて野垂れ死にを希求したりしたら、それは社会迷惑だし、そもそもそんなことを望むこと自体が非倫理的で不法な行為だと糾弾されてしまう。しかし、人生の苦渋を舐め尽くし、とことん孤独の極みを味わい、そのうえである種の悟りの境地へと到達した者にとっては、今もなお、それこそが唯一無二、かつ至上の末路ではあるのかもしれない。ああ、私は野垂れ死にたい!――真摯にそう願ってやまない人物の胸中にあるのは、心にもない追悼の弁の数々で飾られる盛大な葬儀など真っ平御免だという思いでもあるに相違ない。

(博士)
明治期や大正期などには、「末は博士か大臣か」と崇められ、庶民の羨望の的となる人生道を意味していた。ところが、昨今のこの国では、博士課程に進み博士号を取得しても定職に就けなかったり、厄介者扱いされたりし、「末は白紙か大塵か」とも揶揄される救い難い状況が生じてきている。「選択と集中」などという、眼前の実用性や実益性のみを重視する貧弱な学術行政のありかたなどが、その風潮を一段と煽り立てる一因ともなっているのだ。いまひとつには、八百余校にまで増えた日本の大学における博士号の大安売りも関係しているのかもしれない。以前はそれなりの学術研究の成果を達成した者にのみ授与されていた博士号が、いまでは学術研究のスタートラインに着いたばかりの者に、その証として与えられる称号と化してしまったからである。

(本田成親)