時の流れゆくままに・61 | 府中まちコム
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作成日 2026.03.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・61

「天使こと転詞の辞典」草稿より抜粋

(ときめき)
その先に待つのは落胆や絶望の渦だと薄々気づきながらも、一時的期待と興奮に心身を包まれる瞬間を言う。期待通りに事が進むのは、ほとんどの場合、万一という言葉が述べ示す通り、万分の一くらいの確率に過ぎない。ただ、だからと言って、如何なる状況に対しても無感動であり続けるのは、人間の本性として堪え難い。裏を返せば、人間というものは空しく儚いときめきの瞬間を断続的に繰り返すことによって生かされているからである。さらにまた、万が一のことが実現し、胸中のときめきの先に文字通りの感動と歓喜が待っていたとしても、その至福の時間はたちまち過ぎ去ってしまう。まさに諸行無常の世界だと言うしかない。「一瞬のときめき」なる文言は言い得て妙と評すべきだろう。

(流れ者)
人間の中にあってもっとも自由な者たち。ちょっと見には日々の生活にも困窮する悲惨な生活者のようにも思われるが、人間の何たるかを悟り、国家や社会というものによって課される諸々の拘束を守って生きることの虚しさを自覚した真の流れ者は、欲得の絡む俗事の全てを捨て、己の意のままに生きている。嘲笑されようが、衣食住に窮し果てようが、そして、その結果、路上で息絶え朽ち果てようが、彼らは最後まで自らの精神の自由だけは死守する。見映えこそ異なれども、ある意味、達観した禅の修行僧のような存在である。

(肉欲)
この言葉を初めて目にした外国人などは、「食欲」という日本語の類似語ではないかと受け止め、ステーキやハンバーグ、すき焼きなどを腹一杯食べたいという欲求を表す言葉だろうと想像するらしい。実は、異性間での特別な食事会の開催を切望する意味の言葉だと知ると、ひたすら驚きの表情を見せるともいう。

その食事会における食材の摂取法には様々なスタイルがあるそうなのだが、一般的には食材を供給する側と供給される側とがワンセットになって進められる形式のものが多いようである。そしてまた、料理をサービスする側もサービスされる側も、共に歓喜の声を漏らしながらその食事会を満喫できるのもその特徴であるらしい。たまには多数の料理人とお客とが一堂に会して、異次元極秘食事パーティなるものを開催することもあるようだ。

(ぬかるみ)
まだ生活道路の多くが舗装などされていなかった昔の田舎の集落などでは、雨の日になると、一面粘土と泥水に覆われ、歩くごとにずぶずぶと足先の沈み込む箇所があちこちに出現する有様であった。学童期の子どもたちは、そんな悪路悪道伝いに通学をしながら、その種の状況に対応する様々な知恵と手法をおのずから身につけていったものである。その点、舗装道路の完備した都会育ちの人々は、その種の経験などをすることなく成長するため、山行や僻地旅行、さらには自然災害などの際に突如「ぬかるみ」と遭遇したような場合、その対応に戸惑ってしまうことになる。

それと同様に、人生行路の早期における「ぬかるみ」の経験もまた極めて重要である。若い頃に数々の「ぬかるみ」に嵌ったり、足を取られて倒れ込み泥々になったりするような苦渋を味わうことによって、人は真の意味で成長を遂げる、そして、のちのちの人生行路における諸々の災難や不運にもしたたかに耐え抜き生きる力を具え持つようになるものだ。その意味では「ぬかるみ」というものは、人生という名の耐久レースにとっての事前トレーニング装置みたいな存在にほかならない。

(本田成親)