時の流れゆくままに・51 | 府中まちコム
府中まちコム

この記事について

作成日 2025.05.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・51

「天使の辞典」草稿より抜粋

(撒き餌)
常々は人前で清廉潔白な振舞いを心掛けている人間であっても、絶対他の誰にも知られそうにない場所に転がっている利権の類を目にしたりすると、すぐさまそれに飛びついてしまうものである。裏を返せば、人間の倫理観なんて所詮その程度のものなのだ。そんな人間の本質を知り尽くし、生来の悪知恵に長けた究極の悪徳者どもは、素知らぬ顔をして、見えない紐付きのものをも多々交えた大小様々な利権をそっと撒き散らす。そして、善人ぶった人間どもが気を許し、それらの中の紐付き利権に喰らいついてくるのをじっと待つ。いったんそうやって釣り上げられた善人面ぜんにんづらの者どもは、極悪人どもの設け置いた生簀いけすの中に入れられ、彼らの意に添いながら半ば見世物的存在として余生を生き抜いていくしかない。各種保険や安全投資と称されるものの中にも、なんとその種の撒き餌的なしろものが多いことだろうか。

(見栄を張る)
人間の誰しもが多かれ少なかれ心奥に抱えもっている習性のこと。人はその個性を大切にするべきだなどと教え込まれるが、ささやかなりとも己の個性を社会に向けてアピールするには、詰まるところ見栄を張るほかないのである。個性というものが、他者とは異なる資質や素養を具え持つもことを意味しているとすれば、それらを周囲の人々に認知してもらうためには、見栄を張ることも不可避とはなってくる。ただ、自らの存在意義の高さを、敢えて恰好をつけながら周囲の人々に向かって誇示する行為は、歌舞伎の舞台などにおいてならともかく、通常の庶民生活のなかにあっては、冷ややかな目で見られるのが落ちでもある。

それゆえ、達観者よろしく一切の「見栄」を捨て、自然体のまま、野の花のごとく世の一隅にあって人知れず生きる道を歩むのも、個性にとって望ましい選択ではあるに違いない。だが、裏を返せば、それとてもまた自己表現のひとつであるとも言えるから、「逆見栄張り」の行為だと見做されても仕方がないだろう。そう考えてみると、人間とは何とも厄介至極なものである。

(昔話)
長いながい過去の時の流れの洗練を受けながら、人間の賢さや愚かさ、優しさや残忍さ、慈悲深さや無慈悲さ、大自然の慈悲や魔性などについて、代々語り伝えられるべく残されてきた物語のこと。優れた昔話というものは、現代にもそのまま通じる教訓を秘め持っているものである。その意味では、「今話」と考えてみることにしても大過はないだろう。

かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下で、新しいことは何一つない。
見よ、これこそが新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、
この時代の前にもあった――。

今から二千数百年前の旧約聖書の中に収められたこの一文――「コヘレトの言葉」の持つ意味は深くそして重い。「昔話」とはけっして現代とは無縁な、どうでもよい遠い時代の話などではないのである。

(本田成親)