時の流れゆくままに・53 | 府中まちコム
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作成日 2025.07.05

この記事の分類 府中絵日記, 随想

時の流れゆくままに・53

「天使こと転詞の辞典」草稿より抜粋

(夜遊び)
酒乱三昧や不倫行為の数々を連想させるこの言葉にはあまり良い印象はなかろうが、お金の流れを伴う意味でならば社会的経済活動に貢献しているとは言えよう。だが、その一方、真の意味での夜遊びには人間の成長にとって不可欠な要素が秘められもしている。

安全性絶対の現代社会では、子どもの夜遊びなどは厳禁とされているが、自然豊かな地方などでの深夜の蛍狩り、夜光虫類や夜行性動物類の観察、夜釣り、月見、星見、雪見、磯浜遊びなどは、自然界の奥に潜む諸事象に対する深い感銘や、それらに伴う鋭い五感の発達を生みもたらしもしてくれる。そして、昼間と同様に夜の世界にも数々の感動的な出逢いや出来事が秘められていることに気づかされ、闇そのものに対する恐怖心が払拭されることになる。一連の経験を通して得られる精神的な成長も見逃せない。不道徳かつ不安全な提言だとの批判もあるだろうが、よい意味での子どもの夜遊びなどは是非ともお奨めしたいものである。

さらにまた、真の意味での夜遊びなら、大人にとっても捨てたものではないだろう。たとえば、大人の場合なら、深夜に富士山麓青木ヶ原などのようなところを歩いてみるのも一興には違いない。悪霊の出現を想像してみたりし、恐怖心が先立つかもしれないが、般若心経にもあるようにそんな思いに駆られるのは、心に迷いがあるからなのだ。実際、深夜そこに足を踏み入れてみると、漆黒の闇の中ですっかり衰えかけていた五感が再度鋭く研ぎ澄まされ、忘れかけていた人間本来の視覚、聴覚、嗅覚、触覚、さらには味覚までもが甦る。そしてまた、第六感と称される精神機能も浄化され、冷静沈着な思考を取り戻すこともできるようにもなってくる。俗世のしがらみを離れ、独り我が道を歩むという行為の真髄に触れることができるのも、夜遊びあっての話ではあるに違いない。

(雷光)
轟音を伴って上空を激しく切り裂く稲妻の煌めきは、「地震・雷・火事・親父」の諺にもあるように、地震の次に恐ろしいものとされてきている。しかし、雷の本場である南国の島育ちの者などには、打ち上げ花火の逆をいく、天から地上に向かっての「打ち下げ花火」の美しい光景に見えることもあるらしい。雷神様も舐められたものだが、中国では天帝の属神とされ、日本では北野天神の眷属(けんぞく)とされているというから、本来は諸人の守り神であったはずなのだ。それゆえ、時には激しい雷雨の晩などに、自然界の神々の演出する美しい光のドラマに見惚れるのも悪いことではないだろう。「雷光」に恐れおののいているばかりでなく、「来光」として崇めながら眺めやるのも、確かに一興ではあるに相違ない。大きく視点を転換し 大自然が大空を舞台に演出する壮麗な電光花火大会だと見做してしまうのもけっして悪くはないだろう。

(リアリズム)
写実主義と訳されるこの言葉の意味するところは、絵画などを中心とする芸術の世界において、かつての写真がそうであったように、対象物をありのままに表現することをいう。しかし、近年、IT技術の進展に伴う各種画像・映像制作技法の飛躍的向上や、3Dプリンターによる精密な立体図形制作技法の登場により、リアルと称される表現物が実はフェイク、すなわち偽の人的工作物であることも多くなってきた。「映像」の項でも述べたように、一昔前は「映像は嘘をつかない」と言われたものだが、今はもう、「映像は嘘をつきまくる」という時代に突入してしまった。実像と虚像とが交錯し最早その区別がつかなくなってしまったこの時代、リアリズムというこの言葉は死語と化してしまっている。「アンチリアリズム」、すなわち「非写実主義」が跋扈する世界の到来というわけなのだ。

(本田成親)